
熊本県美里町と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。
全国的には「日本一の石段」で知られる町です。釈迦院御坂遊歩道には3333段の石段があり、美里町を代表する観光名所となっています。私も運動を兼ねて、よく登っています。
しかし、美里町にもう一つ、ほとんど知られていない名物があります。
それが、お茶です。
しかも単に「美里町でもお茶を作っています」という話ではありません。
美里町には、熊本県内の茶品評会や入札で高く評価される名人が集まり、長年にわたって農薬を使わない栽培に取り組んできた農家もあります。
生産量の大きな産地ではありませんが、品質と生産者の個性という点では、熊本県内でも特に注目したい茶産地です。
関連記事:熊本は知られざるお茶の名産地|全国7位なのに「熊本茶」が知られていない理由
熊本県内でもほとんど知られていない美里町のお茶
熊本県がお茶の産地であること自体、全国的にはあまり知られていません。
県内でも産地名として比較的知られているのは、
- 矢部茶
- 岳間茶
- 人吉茶・球磨茶
などでしょう。
一方、「美里町のお茶」「美里茶」と聞いて、すぐに味や特徴を思い浮かべられる方は、県内でも多くありません。
しかし、熊本県茶品評会の受賞者を見ると、美里町の生産者の名前がたびたび登場します。
令和3年度の熊本県茶品評会では、茶園の部で美里町の生産者3名が上位入賞しました。
- 松井義博さん:最高賞の農林水産大臣賞
- 右田健一さん:熊本県知事賞
- 市川辰太さん:全国茶生産団体連合会長賞
小さな産地から3人もの上位受賞者が出ていることは、美里町の茶園管理と栽培技術の高さを示しています。
令和6年度の茶園品評会でも、右田健一さん、市川辰太さん、松井義博さんの名前が受賞者として美里町の広報に掲載されています。
一般消費者にはほとんど知られていなくても、熊本の茶業関係者の間では、美里町は高品質なお茶を作る地域として認識されているのです。
美里町では煎茶より玉緑茶が中心
山麓園が美里町の生産者からお茶を仕入れ、入札に出品される荒茶を見てきた実感では、美里町は一般的な煎茶よりも、蒸し製玉緑茶を中心とする産地です。
玉緑茶は、煎茶のように茶葉を細長い針状に仕上げず、茶葉が曲がった形に仕上がるお茶です。
九州では「ぐり茶」とも呼ばれています。
ただし、同じ玉緑茶でも、仕上がりは生産者によって大きく異なります。
細長く整った茶葉が多いものもあれば、丸くころころとした粒状の茶葉が目立つものもあります。色、水色、香り、旨味、渋味も、生産者や品種によってかなり違います。
この「同じ産地でも作り手によって個性が違う」という点こそ、美里町のお茶の面白さです。
熊本県の茶取引で高く評価される美里町のお茶
熊本県では、新茶の時期になると、生産者や生産組合が作った荒茶を茶商が評価し、価格を提示する入札取引が行われます。
茶商は、
- 茶葉の外観
- 色沢
- 香り
- 水色
- 旨味
- 渋味
- 製造上の欠点の有無
などを確認し、そのお茶に見合う価格を付けます。
特に新茶期の最初に行われる初入札の最高値は、新聞や業界内でも話題になります。
もっとも、最高落札価格は、純粋な品質順位だけで決まるとは限りません。
初入札の最高値には、ご祝儀的な意味や、最高値で落札したことを販売促進に活用する茶商側の意図が含まれる場合もあります。
そのため、
最高値のお茶=客観的に必ず県内で一番おいしいお茶
と単純に決めることはできません。
それでも、毎年のように高い価格帯で評価され、品評会でも繰り返し上位に入る生産者は、やはり栽培と製茶の技術が高いと考えてよいでしょう。
美里町には、そのような生産者が複数います。
美里町を代表する4人の茶生産者
ここからは、山麓園が実際にお茶を見たり、仕入れたりしてきた経験をもとに、美里町の主な生産者をご紹介します。
品種構成や製造方法は年によって変わることがありますが、一般的な検索ではなかなか知ることのできない、美里町のお茶の個性をお伝えします。
右田健一さん|熊本県内屈指の玉緑茶の名人
美里町のお茶を語るうえで、まず名前を挙げたいのが右田健一さんです。

当店が熊本県内の入札茶を見てきた中でも、右田さんのお茶は最高値圏で評価されることが多く、県内屈指の名人として知られています。
右田さんは品評会でも多くの受賞歴があります。
平成30年度の熊本県茶品評会では、茶園の部で1等に選ばれ、さらに農林水産大臣賞を受賞しています。
平成26年度の熊本県茶振興大会でも、茶園の部で1等を受賞しています。長期間にわたり高い評価を受け続けていることが分かります。
右田さんの玉緑茶には、一般的な煎茶とは明らかに異なる、ころころと丸まった粒状の茶葉が見られます。
茶葉の形に玉緑茶らしさがよく表れており、見ただけでも丁寧に作られたことが伝わってきます。
主に扱われている品種は、
- さえみどり
- やぶきた
- あさのか
- きらり
- つゆひかり
などです。
鮮やかな水色と旨味を持つ品種から、香りやコクのある品種まで、複数の品種を作り分けています。
特に「さえみどり」は、色が明るく、渋味が少なく、旨味を感じやすい品種です。
右田さんのお茶は、若芽の外観、水色、旨味、香りのいずれも評価が高く、欠点を探すことが難しい、完成度の高いお茶です。
「知られていない産地だから品質も普通だろう」と考えて飲むと、おそらく印象が変わると思います。
高島園・高島靖典さん|平成元年から続く農薬を使わない茶作り
美里町で個性的なお茶を作っているのが、高島園の高島靖典さんです。
高島園では、お父様の代の平成元年から農薬を使わない栽培を始めたと伺っています。
現在、高島靖典さんは、茶を対象とした有機JAS認証の生産行程管理者として公開されています。
高島さんの特徴は、扱っている品種の多さです。
- さえみどり
- きらり
- やぶきた
- おくみどり
- せいめい
- べにふうき
などのほか、一般にはあまり流通していない品種も栽培されています。
育種や品種に対する知識が深く、品種ごとの特徴を生かしたお茶作りに取り組まれています。
特に注目したいのが「べにふうき」です。
べにふうきは紅茶用品種として育成されましたが、メチル化カテキンを含むことから、粉末緑茶や健康茶の原料としても利用されています。
しかし、べにふうきは渋味や苦味が強くなりやすく、単に栽培して製茶すれば、おいしいお茶になるわけではありません。
高島さんは、べにふうきの可能性を早くから研究し、その個性を生かすお茶作りに挑戦されています。
高島園のお茶には、昔ながらの素朴で懐かしい味わいのものもあれば、これまでのお茶とは違う珍しい香りや風味を持つものもあります。
「有機茶は味が薄い」という印象を持っている方にこそ、一度飲んでいただきたいお茶です。
松井義博さん|80代になっても腕が衰えない凄腕の職人
美里町には、80代になった現在も高品質なお茶を作り続けている、松井義博さんがいます。
令和3年度の熊本県茶品評会では、茶園の部の最高賞となる農林水産大臣賞を受賞しました。
松井さんのお茶を見て最初に感じるのは、茶葉の形の美しさです。
茶葉の大きさや形がきれいにそろっており、荒茶の段階から、製造に対する細かな気配りと職人気質が感じられます。
水色は濃厚なものが多く、旨味だけが突出するのではなく、香り、甘味、渋味のバランスが非常に良好です。
若い生産者だから新しい技術に強い、高齢だから技術が古い、という単純なものではありません。
長年にわたって茶葉の状態を見続け、気候や芽の成長に応じて製造を調整してきた経験は、機械の設定値だけでは再現できないものがあります。
主に、
- さえみどり
- きらり
- やぶきた
などを作られています。
年齢を重ねても製茶技術が衰えず、現在も品評会で評価されるお茶を作り続ける、まさに凄腕の茶職人です。
市川製茶園・市川辰太さん|有機茶と桑茶にも取り組む生産者
市川製茶園の市川辰太さんも、美里町を代表する生産者の一人です。
市川製茶園は、2016年から茶の有機JAS認証事業者として公開されています。美里町には、高島さんと市川さんという、複数の有機茶生産者がいることになります。
令和3年度の熊本県茶品評会では、茶園の部で全国茶生産団体連合会長賞を受賞しました。
主に、
- やぶきた
- さえみどり
などのお茶を作られています。
市川さんのお茶には、個性のある濃厚な味わいのものが多く、一般的な市販茶とは少し違った力強さを感じることがあります。
また、緑茶だけでなく、桑の葉を利用した桑茶の生産にも力を入れています。
茶農家が緑茶だけを作り続けるのではなく、地域の農産物や健康茶まで含めて商品を開発することは、今後の茶産地を維持していくうえでも重要な取り組みです。
有機栽培、品種茶、健康茶と、幅広い可能性を持つ生産者です。
主な4人のうち2人が有機JAS認証農家
今回紹介した美里町の主な生産者4人のうち、高島靖典さんと市川辰太さんの2人が、有機JAS認証を受けた茶の生産者として登録されています。
産地全体の生産者数が多くないことを考えると、これは注目すべき特徴です。
有機栽培では、害虫、病気、雑草への対応が難しくなります。
特に温暖で雨の多い熊本では、農薬を使わずに茶園を維持し、一定の収量と品質を確保することは簡単ではありません。
美里町には、
- 品評会や入札で最高水準の評価を受ける名人
- 何十年も農薬を使わない栽培を続けてきた農家
- 80代になっても高品質茶を作り続ける職人
- 緑茶だけでなく桑茶や機能性品種にも挑戦する生産者
が同じ地域にいます。
生産量や知名度では測れない、非常に密度の高い茶産地なのです。
「くまもと茶」は誰でも自由に使える名称ではない
熊本県産のお茶を紹介する際に、注意したいのが「くまもと茶」という名称です。
「くまもと茶」は地域団体商標として登録されており、権利者はJA熊本経済連と熊本県茶商業協同組合です。指定商品は「熊本県産の緑茶」とされています。
そのため、熊本県産であれば、どの事業者でも無条件に自由に表示できる名称というわけではありません。
ただし、「一般企業は一切使えない」という意味でもありません。
JA熊本経済連や熊本県茶商業協同組合の組合員は使用でき、組合員以外の事業者も、申請によって名称を使用できる仕組みとされています。
したがって、本記事では地域そのものを紹介する場合には「熊本県産茶」「熊本のお茶」「美里町産のお茶」などの表現を基本としています。
美里町のお茶は生産者名と品種で選んでほしい
「美里町のお茶」と一括りにしても、味は一つではありません。
右田さんの完成度の高い玉緑茶。
高島さんの品種ごとに異なる有機茶。
松井さんの形状が美しく、濃厚でバランスの良いお茶。
市川さんの個性と力強さを持つ有機茶。
同じ美里町で作られていても、それぞれに違いがあります。
そのため、美里町のお茶を選ぶ際は、産地名だけでなく、
- 生産者名
- 品種
- 玉緑茶・煎茶・紅茶などの茶種
- 有機栽培か慣行栽培か
- 一番茶か二番茶か
まで確認すると、より自分の好みに合ったお茶を見つけやすくなります。
例えば、鮮やかな色とまろやかな旨味を求めるなら「さえみどり」。
香りと旨味のバランスを求めるなら「きらり」。
昔ながらのお茶らしい香味を求めるなら「やぶきた」。
個性的な香味や機能性に興味があるなら「べにふうき」。
同じ生産者でも、品種によって印象は大きく変わります。
無名だから品質が低いわけではない
美里町のお茶は、宇治茶、八女茶、嬉野茶、知覧茶のように、全国的に名前が知られているわけではありません。
「美里町産」と表示しても、ほとんどのお客様は味を想像できないでしょう。
しかし、産地の知名度と、お茶そのものの品質は別の話です。
美里町の生産者は、熊本県の品評会で繰り返し上位に入り、入札でも高い評価を受けています。
有機栽培を長く続け、多様な品種を育て、年齢を重ねても技術を磨き続ける生産者がいます。
名前が知られていないからこそ、ブランド料ではなく、純粋なお茶の品質に対して価格が付けられている面もあります。
有名産地のお茶を選ぶ安心感もあります。
しかし、ときには知名度だけで選ばず、まだ知られていない産地や生産者のお茶を飲んでみると、日本茶の世界が大きく広がります。
美里町は「日本一の石段」だけでなく、お茶もすごい
熊本県美里町には、3333段の日本一の石段があります。
しかし、美里町の魅力は石段だけではありません。
県内屈指の玉緑茶の名人がいて、有機栽培を続ける農家がいて、80代になっても品評会で高く評価されるお茶を作る職人がいます。
しかも、それぞれが同じ味のお茶を作るのではなく、品種や栽培方法、製茶技術によって異なる個性を表現しています。
美里町は、大量生産型の有名茶産地ではありません。
その代わり、少数の優れた生産者が、個性豊かなお茶を作る、知られざる玉緑茶の名産地です。
熊本にこれほど魅力ある茶産地があることを、もっと多くの方に知っていただきたいと思います。
